ほこりを払う(Sweeping the dust) pattram pushpam phalam toyam / yo me bhaktya prayacchati tad aham bhakti-upahrtam / ashnami prayata-atmanah (パットラン プシュパン ファラン トーヤン ヨー メー バクテャー プラヤッチャティ / タド アハン バクティ・ウパフリタム アシュナーミ プラヤタートマナハ) 私に捧げられるものがなんであれ、純粋な愛を伴うなら、捧げ物が葉や花、果物のひとかけ、あるいはひとさしの水のようなわずかなものでも、私は受け取るだろう。  私が初めてインドに行ったとき、私は16世紀から続くインド細密画をどうしても見たいと思っていました。それまでに私は西洋の美術館で沢山のインド細密画を見たことがあったのです。そして、インドでは最高のコレクションを見ることができると思い込んでいました。でもインドの美術館では、照明が暗すぎて何も見ることができませんでした。でも、私がそこで何を見つけたかというと、素晴らしく芸術的な手塗りのスプーン、タペストリーで飾られた椅子、陶器のカップ、刺繍された肩掛け、手編みの縁なし帽、Rag-Rugsと呼ばれる布きれ(rag)から作られた絨毯でした。それで、私は芸術作品を見つけることはあきらめて、代わりに日常生活に芸術を見いだしたのです。  礼拝はこれに似ています。私たちは神を美術館、教会、寺院に求めがちですが、神はそのような場所にだけいらっしゃるのではありません。神はあらゆる場所にいらっしゃるのです。でも、どうやって神をあらゆる場所に見いだせばよいのでしょうか?それは、あらゆる存在を神として遇することです。冒頭のバガヴァッド・ギータの詩節では、神(クリシュナ)は、献身的な気持ちをこめて、葉や花、果物や水を私に捧げよと言っています。彼は神への愛を示す、気取らないものを求めています。もし私たちが、全ての存在と共にこのように振る舞うことができれば、この詩節の意味するところを理解することができるでしょう。一本のお香、ひとつの素敵な言葉、一頭の犬への食事、暗誦しているひとつの文章、一回のおじぎ、一杯の暖かいお茶、これら全てが神に受け入れられるのです。  2009年、私のグル(師)であるシュリ・K・パタビジョイス師が亡くなりました。そのすぐ後に、私は師の娘であるサラスワティに形見を分けていただけないかとお願いしました。彼女は私に古くてすり切れた肩掛けをプレゼントしてくれました。それは彼女の手の中で畳まれていて、それを広げながら私に言ったのです。“グルのお気に入りだったのよ。とても質素で、あなたも気に入ると思うわ。彼は華美なものが嫌いだったの。”この何カ所か裂けている肩掛けは、完璧な贈り物でした。わたしはとてもとても嬉しかったのです。このようにして、サラスワティは神を喜ばせたのです。神を喜ばせることで、私たちは緊張から解放されて、ほっとします。師が亡くなったという悲しいときでさえも、私を幸せにし、彼女を幸せにしたのです。    私がインドで見知った男性がいます。彼はお尻からしたの脚がありません。彼は木片を持っていて、自分をそれにくくり付け、そして両手を使って這い回るのです。彼はわたしが通りかかるところに座っていて、お金を求めて“Amma,Amma(お母さん、お母さん)”と大声で言うのです。彼は私をお母さんと呼んでいます。彼は私に優しさを求め、苦しんでいる人々の中に神を見いだすように求めているのです。かつて、グルジ(パタビジョイス師)は私に、その男性は神である、“神がそのひとに身をやつしているのだ”と言ったのです。  Asana(訳注:アサナ、ヨガのポーズのこと)という言葉は、椅子、寄り掛かるもの、支えを意味します。誰かの支えになるということには無数の方法があります。これらの方法は全てを共につなげる糸となり得ます。贈り物を捧げることは、与える人と受け取る人をスピリチュアルにつなげるのです。  悲しいことに、葉や花、果物や水は、私たちが地球を破壊するにつれて消え去りつつあります。このようなときに私たちにできる最高の贈り物は、ベジタリアンになることです。それは植物、動物、気候と人類に対してあたえるのが最小の痛みですむ、穏やかな食生活です。もし私たちが、いずれ殺されて解体される動物たちの食料とする1種類の作物を育てるために、森や木々、草原、沼地、植物、根、花、つる植物と雑草を除き続けるなら、私たちの大地から葉や花、果物や水は消えてなくなってしまうでしょう。  (バガヴァッド・ギータのような)聖典は明らかに判ること、そしてあまり明らかではないことを予言しているのです。おそらく、神なるクリシュナはこの詩節で、私たちに葉や花、果物と水は神から私たちへの贈り物であり、それらを守り、そして返礼とするようにおっしゃっているのです。  私の夫であるロバートと私は木々に囲まれた小さな家に住んでいます。みつ蜂や大きな蜂、羽アリがしょっちゅう入ってきますし、時には蛇もやってきます。夫はこれらの動物たちを適切に扱う方法を心得ています。彼らを刺激しないように、上から箱をかぶせ、したから紙を差しこんで、そして外へ運び出すのです。  “ほこりを払う”というのは大地の大切さを想うと述べるひとつの方法です。伝統的に、ヨギはいつも大地に座ってきました。長老か特別尊敬される先生のみが椅子を与えられたのです。あらゆるものが大地のうえで休息します。大地とは支えなのです。大地は共に座り、語り合う場所です。“ほこりを払う”というのは喩えです。この精神に則って、この本を贈ります。グルジの裂けた肩掛けのほんの小さな一片のように。 -Ruth Lauer Manenti, from the Introduction to Sweeping the Dust 日本語訳Akkie