FEAR(恐れ) 私たちの最も深い恐れは、私たちは力が足りない、ということではありません。それは、私たちはとても大きな力がある、ということなのです。それは私たちの光明であって、私たちをもっとも恐れさせる暗闇ではないのです。私たちは、自分が、頭がよく、美しく、才能があり、すばらしい人になれるかどうか自問します。実際に、あなたがたがそうでないことがあるでしょうか?あなたがたは神の子なのです。小さく消極的にふるまっても、世界に貢献できません。あなたがたの周りの人々が不安を感じないですむための、あなたの消極的な態度にはなんらほかの人を啓発するものがありません。私たちは輝くべきなのです。子供たちが輝いているのと同じように。私たちは内なる神の栄光を明らかにするために生まれてきたのです。それはほかの誰かのことではなく、私たち皆のことです。そして私たちは自らの光明を輝かせることで、ほかの人々が同じようにすることを促すのです。私たちが恐れから解放されることで、その影響力により自ずと他の人々を解放するのです。 Marianne Williamson  恐れは、すべての存在が程度の差こそあれ経験する感情です。あらゆる恐れは、私たちが物事を見る上での見方と過去の経験(カルマ)から生じます。恐れのなかには私たちが生きていくために必要なものもあります。それらは本能的な恐れです。そのほかの恐れは、私たちに十分に自己表現できる生き方をさせず、私たちを縛り付けられ、隷属させられた存在とするのです。しばしば、私たちを孤立させる力である、これらの恐れは私たちと他の存在とのへだたりを広げ、私たちの聖なる自己が現れる妨げとなるのです。  Taittiriya Upanishad文献はこう教えています“生命がひとつであると理解するまでは、恐れを抱いて生きることになる”。私たちが周りの世界を理解できない時、まるでその良く判らないものが私たちの安全や快適さを脅かすかのように考えて、その未知のものを拒絶し、身を守るようにふるまいます。この不安感や自信のなさを表す言葉がなんであれ、私たちの反応はいつも恐れに根ざしているのです。大きな恐怖に捕らわれた時、私たちは世界を二元論的な見方で考え、物事に良い/悪い、君はこれ/私はそれというラベルを付け始めるのです。モノを使うことで(自分以外の存在を道具、食べ物、ドラッグ、アルコール、テレビなどとして使うことで *1.)、(ドラッグなどのモノを使うことで安易な逃避を求める私たちの *2.)習慣的な思考と、一緒に、あるいは別々にでも、私たちの性質・グナ(*3.習慣的な思考は私たちのエゴと関係していて、純質、激質、暗質の3つからなるグナのバランスによりは私たちの消極的だったり、攻撃的だったり、あるいはその中間的な思考として現れる *4.)は私たち自身を私たちが感じている怖れ(の根源を見つめることから逃避することで *5.)から切り離し、(自己の思考にとらわれない世界での *6.)人生の経験と自己(の思考により世界 *7.)との(間に思い込みの壁を創り上げて *8.)分離を強化するのです。その結果として、恐れが私たちの聖なる自己を、生まれながらの知性、気力、自信から遠ざけ、殻に閉じ込めることを許すことになるのです。もしこのような殻が、生涯にわたって、もしくは幾度もの生まれ変わりの行程においてできてしまったなら、この態度は私たちの精妙な身体に、samskara(サンスカーラ)として心理的な痕跡を残すことでしょう。これらの痕跡は、まるで同じ軌道をなんどもなんども周回するような反復行動、ありきたりで平凡な経験の結果、によって深くなるのです。  ヨーガ練習者として、私たちは恐れの根源に至り、ついには心理的な限界とsamskaraを解放するという希望を抱いています。私たちの身体はカルマによって作られていて、私たちは瞑想、アサナ、プラーナヤマ、食事法、そして高度な意志を用いることで、心の中で私たちが真なる自己に抵抗している場所を把握するのです。この肉体的な探求により私たちはカルマをその源へ帰すことができ、そして解決、癒し、それに続いて自由へと開かれるのです。  瞑想によって、私たちは内面的な心の見取り図を見渡すことができ、恐れの源と深さを探究することができるのです。愛は恐れの反対のものであり、私たちは自分の思考の傾向を見つめ、そして内的な対話により、どこで自分への愛が欠落しているか知るのです。恐れを取り除くために、私たちは自らの恐れに、思いやりを持ち、かつ良い悪いの判断をせずに向き合って、理解するに足る愛を自己に対して持たなければなりません。  アサナの練習は、私たちがさらに深い繋がりを恐れの源と持つことを助けてくれます。なぜなら、アサナは身体の緊張と堅さの感覚を感じさせてくれるからです。それはまた、特定のポーズとそれが引き出す心理的で感情的な不快感への、怖いと思う反応を観察する機会を与えてくれます。アサナによって、私たちは心と身体の抵抗を明らかにすることによって、何を知っているのか、あるいは知らないのかのぎりぎりの境界線を探索することができます。これは特にランジ、バックベンディング、そして恐れの反応を示す主要な筋肉である腸腰筋をゆるめるアサナではっきりとわかります。腸腰筋をゆるめることと、身体の前面を伸ばすことで内なる感情を見つめることができます。ポーズを安定させるために重要なことに、腸腰筋は背中の下の方から始まって、身体の前面をとおって、お尻の深部にある大腿骨小転子へとつながっています。  ナディショダナのようなプラーナヤマはエネルギーの通り道(イダ、ピンガラ、スシュムナ)をきれいにするだけでなく、感情と人格へと指令を発する中枢である前頭葉を刺激します。それは脳の右脳と左脳のバランスをとり、心と神経を落ち着かせます。私たちの神経のバランスがとれているとき、経験するかもしれない恐れに対する反応がより穏やかになります。  菜食は、恐れから解放される手段です。工業的な農場で飼育されている動物たちは屠殺される直前に、死の恐怖への反応としてストレスホルモンやほかの化学物質を分泌します。そして、私たちが彼らの肉を食べるとき、ひと口ごとにその恐怖を食べているのです。他の存在の恐怖を生み出さない食事を選ぶことは、私たちが人生で経験する恐れに対して直接に影響するのです。  これらの練習をすべて、私たちの恐れの源へ高い集中力を持って向き合う行うことで、私たちは親密さを育むことができます。この親密さは、私たちの恐れに対する根深い反応と関係性を変えていくための勇気を与えてくれます。ひとたび、私たちが恐れとは現実のものではなく、心の中の概念にすぎないと判ったなら、生きることのすべてを穏やかに、受け入れることができるのです。恐れに妨げられず、縛られることがもはやないなら、私たちは勇気を持って積極的に生きていくようにと心に火を灯されたことになるのです。私たちの内面と周りにある全てのものとともに、自由にそしてくつろいでいれば、私たちは地球(大地)と堅固で喜びに満ち、恐れることなくつながっていられるのです。 (*1.〜9.は訳者注) ~ Giselle Mari, 2010 日本語訳 Akkie