練習と無執着 abhyasa-vairagyabhyam tan-nirodhah (PYS 1.12) 心の動揺との自己同一視は、練習と無執着によって制止される。  ヨーガ・スートラ第一章第二節においてパタンジャリ師は、ヨーガの境地は心の動揺との自己同一視を制止することであると定義されました。そして第一章第十二節において、師は動揺を制止し、ヨーガを達成する二段階の方法を提示して下さっています。師はそれは練習(アヴィヤーサ)と無執着(ヴァイラーギャ)であり、そして私たちは思考との同一視を止めて、私たちの真実の有様を見出すとおっしゃっています。その時、私たちは悟り(あらゆる存在がひとつであると悟りえること、永久なる祝福)に至るのです。  そのため、私たちがなすべきことは練習であって、執着することではありません。言うは易し。でもどうやって?本当のところは、どういう意味なのでしょうか?アヴィヤーサは練習を意味します。そして何かを練習することは、しばらくそれと向き合うということです。例えば、なぜ私はその仕事をしなければならないのでしょうか?なぜ、私の夫(妻)は話を聞いてくれないのでしょうか?わぉ、なぜショルダースタンドのポーズを5分保たなければならないのでしょうか?あるいは、なぜ私は静かに座って、瞑想しなければならないのでしょうか、やるべきことがあるのに?-あなたは自分の反応を注意深く観察し、そして手放してください。そして次の反応を観察し、手放し、そして次も。それを繰り返すのです。  それでは、なぜ私たちはただそう(練習)して、人の生における苦しみを取り除かないのでしょうか?私の先生の一人は、かつて私にこうおっしゃいました。“誰でも悟りを得ることはできますよ。もしその人が部屋に閉じこもって、本もなく、TVや電話もなく、1日16時間の瞑想を3週間続けるならね。“でも、そうする人はほとんどいません。それは私たちはほんの少しの間座っただけで、立ち上がって何かをしなくてはならないと感じるからです。私たちの過去の行動が(心の)表面へと浮き上がってきて、全力で私たちの注意を散漫にし、私たち(の心)を連れ去ってしまうのです。それらは激しいやり方で私たちがただ座ることをとても不快なことにするのです。なにか心を掻き乱すものがわきあがってくると、私たちはそこから逃げ出して、”チャンネルを切り替え“ます。その為、私たちはわきあがってきた困難をまるごと体験することは決してしません。そして私たちがそうした時(逃げ出した時)、その困難をより増大させ、向き合うことができないものにしてしまい、そして私たちは前へ進めなくなるのです。  困難と向き合いながら座るために必要なもの、それがヴァイラーギャ(無執着、公平で超然とした態度、冷静さ)です。ヴァイラーギャは何か(例え良いことであっても)に向き合うことです。そしてそれと自己を同一視しないこと、一緒にならないこと、そうしてそれをあなたがあなた自身を観察する、あるいは見定める手段の一部とすることです。何かがあなたのうちにわきあがってきたら、それに深く入り込んでください、精力的な探究心で、探求を実際に感じ取り(これはなんだ?自分はそれでどんな気分になるのか?)ながら。そしてあなたは、あなたが感じているものが何であれ、経験しているものが何であれ、それはそれだけのものであり、感じるものであり、経験するものであり、それ以上のものではなく、あなた自身ではないと理解するのです。そしてあなたはそれから立ち去るのです。  唯一無二のアサナとは、あなた自身とつながりなのです。あなた自身(肉体と心)と共にあって心休まること、それがゴールなのです。あなた自身とのつながりが安定して、喜びに満ちたものであるようにすることが、すべての移り変わりの中にある真なる自己を明らかにするのです。真なる自己は永遠で、移り変わることがありません。アサナと瞑想は同じ練習です。両方とも何が起きても座っていられるように、そしてうちにあるものを信じられるようにすることです。うちにあるものとは永遠の喜びであり、それが唯一真なる現実であり、そしてそれがあなたの真なる自己なのです。  感じるもの全て、感情全て、それが良いものであれ、悪いものであれ、それが始まっている場所、原点があります。古代の知恵(ヨーガの伝道だけでなく、全てのスピリチュアルな伝統)によると、全ての源は喜びなのです。全宇宙の源は喜び、広大で限りない喜びです。ですから、私たちが怒りのような否定的な感情を取り除きたいのであれば、それが完全なる循環へ赴くようにしなければなりません。取り除くというのは、あるものをその根源へと差し戻し、完全なる循環へ赴かせることです。それがヨーガでプロセスが進むということです。アサナであれ瞑想であれ、平穏を乱す感情や感覚を、あなたはそれと向き合いながら必要なだけ長く座って、それが行くべき道へと行かせるのです。あなたはそれを深く感じとり、次のものが来るに任せ、そしてそれがやって来たところ(喜び)へと返すのです。  矛盾があるのは、練習を効果あるものにするためには無執着が必要でありながら、でも無執着を養うためには練習が必要だということです。だから、私たちはヨーガクラスでも、昼間の仕事でも、夜に家にいたり、友達と夕食をとっている時、何をしているときであれ、それと向き合うのです。つまり、私たちはそれから逃げず、感情を表に出して非難したり尊大になったりせず、もしするなら、それを注意深く観察し、それと一緒にならないように(“あら、こんなの好きじゃないわ、叩き出してやる!”こういうのは避けましょう)しましょう。そして少しずつ、少しずつ、自分が少し長く座れるようになり、同時に少し平穏でいられるようになっているでしょう。そしてこれがパタンジャリ師がお示しになった二段階の方法なのです。 -Sharon Gannon 日本語訳 AKKIE