ヨーガと性  現代の西欧社会では、ヨーガと性に関する思想はオレンジ色の僧衣をまとった禁欲的な僧侶を思い起こさせます。あるいは他方に、より高次な意識レベルへの到達を保証し、でも同時に少々下品にみえるタントラ的なセックスの実践もあります。でも、ヨーガにおいては性について何を語らなければならないのでしょうか。  西欧におけるヨーガに対する志向は、シャンカラチャリア師に大きな影響を受けてきています。彼は8世紀の人でサンニャーシン運動を始めた人です。彼らサンニャーシンはオレンジ色のローブをまとい、俗世を捨てた禁欲僧です。でも16世紀の別の偉大な教師であるヴァラバチャリア師は、神に至る道は世俗での行動にあると教え、この伝統の継承者は結婚して家庭をもつ人々です。  パタンジャリ師のヨーガ・スートラとハタ・ヨーガ・プラディピカで解説されているヨーガでは、世俗に対して否定的な見方をしていません。その上さらに、ヨーガの見方では純化されていない肉体と無知な心が悟りへと至る可能性を持っているのだと言えます。ヨーガは、肉体を純化し、過去の否定的なカルマの傾向を乗り越えるために心と肉体の制御をもたらす練習方法を提供します。ヨーガは肉体をサンサーラ(輪廻転生)からの解脱であるモクシャへ導くより偉大な知識へと至り触れ るための道具へと変容させます。ですから、もし私たちが自分の行動を純化することに関心があるなら、純粋な意図を持っていなくてはなりません。例えば、人はセックスを利己的な理由、他の人に屈辱を与え、服従させるために行う事が出来ます。あるいは他の人と慈しみ、高めあうためにセックスすることもできます。最初に述べた行為を”レイプ”、二つ目を”愛を交わす”と呼べるでしょう。同じ行為ですが、異なった意図でなされたのです。  ”sex”という言葉はギリシャ語の”separation”から来ています。それはあなたと私の区別を強化するという意味です。”yoga”という言葉は”sex”とは逆の意味です。”Yoga”は繋げること、区別を無くす事を意味します。ヨーガとはタントラ的な実践です。タントラ(tantra)はサンスクリット語の単語で伸ばし広げる(tan)、横切る超えて(tra)という意味です。英単の”travel(旅)”と”traverse(横切る)”は”tra”から派生しています。タントラは実際、あなたの自分自身と他の存在に対する見方を拡張し、お互いを隔てる深くて大きな裂け目を横断する能力へと帰するのです。タントラの実践で主に用いられる手法は、他の存在へと顔を向け、それらを人として見る事です。もしあなたが実際に時間を取って他の存在のことを深く見つめたなら、そこにあなた自身を見出すことでしょう。これはヨーガの主要な教えの一つであり、空あるいはサンスクリット語でシュンヤタ(shunyata)と呼ばれます。簡単に言って、私たちが出会うすべての人は、私たち自身から生じてきているのです。私たちはそれらが自らの過去のカルマから生じた幽霊であると気づくでしょう。もしあなたが誰かとセックスをしている最中に、そんな丸裸な深さでお互いの顔を見つめあってみたら、それはセックスから性的魅力を奪う事でしょう。愛とは恐ろしいものになるでしょう。なぜなら自分以外の人がいない場所ですから。顔、肉体は深遠な繋がりの中に同化していきます。果てしない存在の一体化の中では、あなたと私に残されたスペースはあまりありません。だからほとんどの人はセックスをただセックスとして行うのです。  悟りの境地にあるようなセックスは可能でしょうが、それはとてもまれなものでしょう。ですから、悟りにしか興味のない人たちには禁欲は次善の策なのです。でも禁欲はそれが個人の自然な性向でない限り勧められません。なぜなら誰かがそうすべきだといったから単純に約束するということ、正しいこと、より”純粋”に、より”清らか”なことをするという約束はトラブルや苦しみに導く傾向があります。そしてめったに長続きしません。ブラフマチャリヤはパタンジャリ師が勧める制約的実践です。それは通常“禁欲”と訳され、ほとんどの人には自制と受け取られています。ブラフマとは神であり、チャリヤとはあなたをどこかへ連れ出す乗り物を意味します。ですからその言葉が実際に意味するのは、”性を用いるのに神に至るようにせよ。”それは”ヨーガに至るように”と言い換える事が出来ます。  現在のわたしたちのセックスに対する見方は、動物を家畜化し始めた時に誕生しました。それはかれらを繁殖させ、彼らの性を操ることを含みます。動物に関わる企業は動物たちの幸福や快適さを考慮していません。彼らはモノと見なされ、取り扱われるのです。性は搾取され、ついには屠殺されるのです。殺すことと性の関連性は私たちに何かを教えてくれます。わたしたちの経済、わたしたちの生活のあまりにも多くが、動物たちの性の搾取と彼らを殺すことに一番に依存しています。このことがわたしたちの他の人々との性的な関係に影響しないことがあるでしょうか。分離は親しさを拒否します。私たちは性を責任の欠如した、共感や愛なしに起こる何か単なる機能と見なしてきました。あまつさえ私たちは、肉体は心や魂とは違うのだとお互いに話してきました。私たちは精神的なものから肉体的なものを切り離してきたのです。  どのようにすれば性を搾取的で、肉体的なものが精神的なものから切り離されているとするものではなくす事が出来るでしょうか。それは他の存在が直接的な性欲の対象以上の存在であり、私たちに奉仕する存在以上であると認識する事から始まるのです。それは質問を変えることから始まるのです。“それは私に何をしてくれるの?”ではなく、“私は彼らのために何が出来るの?-どうしたら彼らの生を向上させる事が出来るの?-彼らがもっと快適過ごせるように、幸せに、愛されるように、何が出来るの?”それは他の存在に顔を向け問う事から始まります。“あなたは誰?私は、私たちは誰?私たちは何をしているの、それは何故?”それらはとても力を備えた問いなのです。  私たちが世界において見るものは全て私たちの内面の反映なのです。ヨーガは繋がり、セックスは分離を意味します。ヨーガは他の存在の中に自分自身を見出すこと、自分自身と他の存在との分離が消えていくまでとても深く見ること、そして分離が消え、セックスが消え、そして一体化が残り、そしてそれが愛なのです。 -Sharon Gannon 日本語訳 AKKIE