タイムマネージメント tyaktva karma-phala-asangam / nitya-tripto nirashrayah karmany abhipravritto ‘pi / na-eva kimchit karoti sah バガバッド ギ−タ 第4章- 20 結果への執着を放棄する事により、依存する事から解放され、 全ての行為は本来の己によって行われているのでないと悟る。 私達の多くが時間との戦いに苦戦しています。全てをやり遂げようとしては、完璧なタイミングを逃したのではないかと、もっと準備が出来ていれば、もっとタイミングがよければ、 もう少し時間があったら、もっといい結果になっただろうに、全てをやり遂げる時間がない、などと心配をします。 多くのタイムマネージメント(時間の管理)に関する書物、セミナーから、 参考になる点を学ぶ事が出来るでしょう。 しかし、ヨギは不満の根本的な原因を追求し、この件の問題点は失意と 自己嫌悪から来ると見るのです–自分に自信が無いとか、何かが欠けてしまっているのでは、もっと成し遂げる事が出来たのではないかという自己批判から来ているのです。誰もが自己を疑う事の延長線上で悩まされているのです。だけども私達の誰もが、そうではないのです。 それなら、どうすればこの困難から脱出できるでしょうか?私達が殆どの時間の中で 何をするにあたっても努力をすること、それと同時に、その日の努力を認める事です。そして 明日目を覚ましてからも自分の出来る事に努力を費やす練習をするのです。結果に左右される事無く、何事に対しても努力を惜しまない。何事に対してもベストを尽くす事ができないという不安は、失意を生み、 他に良い手段があったら、誰かが助けてくれたら、全ては上手くいったのにと心配をする事により、時間との苦しみを経験するのです。 実は、時間との困難に対する解答方法はでているのです。 今、私達がこの瞬間に何をしているのか、どうやって行っているか?それこそまさに  この瞬間に行うべき事そのものなのです。そこには別の方法はありません。 今、この瞬間に没頭する事、それが出来るかどうかなどと心配せずに今と向き合うのです。   息を吸って、吐いて、右足を前に、そして左足の前に。。。 シャヴァサナ(死体の座)の練習はとても役に立ちます。 シャヴァサナの練習は時間との戦いに勝つことは出来なくとも、命が永遠ではない事を認める事によって、この困難についての深い理解に導かれます。 死ぬという事の練習なのです。 床に横たわり、これでお終いと自分自身にいうのです。何も出来ない、プロジェクトも無い、電話をする人もいない、メールの返信をする事もない、何もする事が無い。ただ全てを手放して行くのです。  ヨギとして毎日この練習をするのです。その練習を通して、私達は必死に何でもかんでも出来る事を出来るだけ早くやり遂げるような、社会的に条件付けされたやり方とは逆に、する事の全てに対して実際に参加する事によって、死を向かえるという練習をするのです。 瞑想も大切な練習の一つです。永遠、異変する事の無い現実と繋がる事により、苦しみや自分自身を疑う事は真実の己では無いと理解できるのです。 行為を行っている私とは一体誰なのか?アハンカラとは?エゴとは? 本当はだれがしているのか?などの疑問を持ち、捜索をする事がヨガのアート (アート オブ ヨガ)なのです。 ヨギは聖なる存在に身を委ね、聖なる者の使いとなる事によって自己が行為をする、しているという概念を 放棄する事が出来るのです。  毎日のなかで、自らが神意の導管と勤めることに尽くす事が大切 になります。なぜなら、限られた自力だけでは、何をするのにも、圧倒され、失敗してしまうからです。 限り無ない可能性/神意に身を委ねる事によってこそ、無限の可能性を発揮できるようになるのです。 —Sharon Gannon 翻訳;Kumari , Padmini