埋葬か火葬か 遺体を見つけたら、私は埋葬してあげたいのです。食べるのではなく。 - Ingrid Newkirk  ”おばあちゃん”と呼んでいた20歳になる猫が死んだのは冬至の日の朝でした。私たちは家の中に祭壇を作って彼女の体を安置し、お花やキャンドルやお香で周りを囲みました。他の猫たちと一緒に、私たちは彼女の体の前で一日を過ごし、祈ったり、彼女への愛を呼び起こしていました。二日目になると、私たちは外に出てお墓を掘るのに良い場所を探していました。地面は冷たく凍りついていて、シャベルで掘るのさえ困難でした。”どうして僕たちは薪を積んで、彼女を荼毘に付そうとしないのだろうか?”とデビッドが示唆しました。私は、自分が炎のそばに座って、彼女の白黒の小さな体が燃えて、肉を料理するときのような匂いがするところが心に浮かびました。”だめよ、火葬は。どうしても埋葬しなくては。”  この出来事で、私は文化毎の死に対する態度の違いが、動物たちとの接し方の違いと関連していると気がつきました。アブラハムの宗教と呼ばれる3つ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の全てが埋葬にこだわっています。それとは異なり、ヒンドゥ教では死後速やかに火葬に付されます。肉食(死体を調理する)がユダヤ教、キリスト教、イスラム教の中心であるのと同様に、菜食主義はヒンドゥ教の中心です。これは興味深いことです。私は肉を食べるキリスト教徒として育ち、肉を調理する時の匂いは、友達や家族の葬式に参列したときの匂いではなく、夕食の匂いとして意識に刻み込まれています。人間の肉を焼くときの匂いに対する嫌悪感は、肉を調理しているときの匂いに似ていることからくるのです。肉は、私たちがそれを食べることが罪のないことであることを前提にするためにも魂のないものでなくてはなりません。実際は、私たちは欧米でも火葬はしていますが、インドにおける火葬のように野外で誰にでも見られるようにはしません。西欧では、遺体は持ち去られて隠され、800度以上の高温オーブンで約4時間焼かれます。嫌悪感をやわらげるために、家族や友人達が見ることができるのは残された清潔で、無臭の灰だけなのです。  アブラハムの物語はキリスト教の聖書とイスラム教のクルアーン(訳注コーラン)の両方に載っています。そしてそれはいかにして神がアブラハムに彼の息子であるイサク(クルアーンではイスマエル)を犠牲として捧げるように命じたかを物語っています。しかし、アブラハムが正に彼の息子を火にくべようとしたその瞬間に天使が現れてこう言ったのです。”あなたは神への信仰と畏敬を証明したのです。神はそれを喜ばしく思われました。故にあなたは息子の縛めを解き、代わりに子羊を火にかけて犠牲に捧げなさい。”宗教化された動物を犠牲に捧げる儀式(動物たちを殺して遺体を火で焼き、神の御名において皆で肉を食べる)は3つの主要な宗教であるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の根底をなしています。それはまた政治的な根幹と都市化の成立を形作りました。定住的な生活は動物たちを奴隷化し、搾取し、売買し、食べるという技術に深く依拠しています。そこにおいては動物たちを魂を持たない、人間に使役されることだけを目的としたモノと見なすのです。  広範な農業の爆発的な普及が起きて資本主義と現代化ををもたらした時代、それは現代の私たちの世界そのものですが、それより以前、人類は野性的に暮らし、野性的な動物たちと共に自然環境の中にいました。その時代では人類は自然界の全てと同じ同族としての魂を持ち、繋がりをもっていました。でも私たちが動物たちを奴隷化(飼い慣ら)し始めた時、動物たちとの繋がりを断ち、同じように自然界全てとの繋がりを否定したのです。入念に構成された儀式は、この自然界との分断を成立させ、罪の意識をなくすために利用されていました。儀式的な殺戮はこのプロセスの一部でした。家畜たちは神に捧げられるために宗教施設に連れてこられ、神を讃える言葉が唱えられるなかで聖職者に殺され、火にくべられ、調理され、そして肉は誰かに報酬として与えられるか売られるかされて他の人々に分配されたのです。人類の人口が増大した時代に、同じように家畜の数が増え、都市が発展し、寺院と政治的な力も増大したのです。宗教寺院はもっともっと商業的な屠畜場のようになっていきました。2千年前、古代エルサレムは”赤い都市”として有名でした。それはこの要塞都市の城壁がどれほど美しく夕日に映えたからではなく、動物たちが犠牲として神に捧げられていた大寺院から流れる深紅の血が排水溝から溢れていたからです。3つのアブラハムの宗教は全て、動物たちは人類よりも下等であるという見方を容認しています。そして火葬は認められません。何故なら焼くという行為は動物向けのことであり、人間向けではないのです。  菜食主義は、常にヒンドゥー教の根底にあったわけではありません。動物を犠牲にする行為は初期のヴェーダの大きな部分を成していました。バラモンの僧は動物を犠牲にすることを仕事としていましたし、そもそもバラモンだけは肉食を許されていました。ジャイナ教と仏教による宗教改革の後、ヒンドゥー教は非暴力の善とそれに従って菜食主義の実践を第一に遵守する宗教となりました。次に、火葬は人の遺体を取り扱う主要な方法としてヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒と仏教徒に広まりました。  私たちが自分たちの文化の葬送の儀式を含む宗教儀式について深く考え始める時、私たちの人生において身に染みついていて疑問を抱くこともない、暴力的な行為の根源を暴くことでしょう。そして経験してきたそれらの行為について気がつくことがあるでしょう。良いニュースは、私たちが固く信じこんでいる行為の起源に気がついた時、それは必然的なことでもなく、避けられないことでもなく、何かについて学ぶことでそれを捨て去ることも出来ると気がつくできるということです。私たちは動物たちの犠牲の上に成り立っている古い習慣を廃止し、新しい生き方を作り出すことができます。私たちは不死鳥のように犠牲の炎の灰から飛び立ち、想像もしたことのないような高みへと舞い上がることができるのです。 —Sharon Gannon 日本語訳 AKKIE