atha yoga-anushasanam Now this is yoga as I have perceived it in the natural world. The Yoga Sutras of Patanjali (PYS 1.1) ( アタ ヨガー アヌシャシャナン:音読) これから、私が自然界で観察したヨガの教えを説きます。 パタンジャリのヨガスートラ(第1章、第1節) ヨガの練習を真剣に取り込むようになった人々の理由はみんな同じです。 社会や周囲にウンザリし、限界を超えたからです。 Atha とは“今”という意味を示します。 しかしこの今とは、単なる今現在を意味するのではなく、以後、今後(これから)を示します。この微妙な意味の違いは、『今までに起きて来た事』と 『これから先に起こる事』を区別する大切なポイントになるのです。 第一節からパタンジャリは、今までの状況にうんざりしている私達に直接語りかけます。 誰でも皆がそれぞれのウンザリする状況、 惨めな仕事生活、薬物依存、人間関係など多様な問題話を抱えているのです。 しかし、ヨガに辿り着く根本的な理由は誰もが同じです。ー自らの生活上で、素晴らしい事と苦しい事を照らし合わせ、人生のほとんどは苦悩の中にあると結論を出すのです。“人生、悪くはないけど、もっと充実した人生があるのでは”と思いつつも自分の苦悩は比較的には穏やかなほうだと自分に言い聞かせるのです。ほとんどの人々は苦しんでいる状態自体に気づいていないか、 古い思考回路を手離すつもりもありません。 自己の苦悩が自分自身だと思う人々もいます。 こういう彼らは、ウンザリの沸騰点に達していない為に “もう限界だ、何をどうやったら良いのか?と尋ねる事をしないのです。パタンジャリは、 この限界地点に達した人々に対してのみ、 “やっと良いニュースに耳を傾ける準備ができた?” その最初の言葉を、”atha” アタ と説きます。 ”シャシャナム”という言葉は規則や規律、外部者からの次に何をすれば良いのかという指示、命令を意味します。しかし、アニュ“anu”という言葉を前に付け加える事によって、その命令は内側から来る事を意味します。例えば、“喉が乾いたから、水を飲む”それはとてもシンプルな事で、 水を飲むのは喉が渇いたからであり、水を飲まなくてはいけないといった理由がある訳ではなく、お腹が減ったから何かを食べると同じように、ごく自然なことです。生理的現象であり、考えてからする事ではないのです。パタンジャリはヨガも自然に起きる事だと述べます。ヨガは私達の中を流れていて、私達自身が邪魔さえしなければ、ヨガ(という状態)を私達の生活上に明からにする事ができるのです。ヨガの練習とは、その自然の流れを邪魔しない練習なのです。 言うまでもなく、この自然なる知恵と純粋な流れを拒むといった習慣を修正するのは、それらにマンネリし、ノイローゼ化した日常の中では難しい事です。どうせダメだろうといったネガティブ思考に頼る様な自己防衛は、問題を解く事自体を不可能にしてしまいます。パタンジャリがいうには、このネガティブな思考といった私達の一部は不自然であり、洋服を脱ぐかのように、脱ぎ捨てる事ができると述べるのです。しかし、これは容易なことではありません。私達を100%虜にしているのは思考(マインド)であり、私達は身体の状態にもその影響を見る事が出来ます。 ヨガの練習とは、心の中や腰、または肩などに蓄積し、ブロックされたエネルギーを開く事です。こうしてみると、ヨガとは修行です。ここで大切になるポイントは、この修行とは、周囲からのプレッシャーを受けてから行うのでは無く、自らが率先して行うようになる事なのです。 修行中に困難の壁につきあたった時は、この壁を突き破るチャンスが来たと祝福するのです。失敗しているのではなく、私達の持つ困難の性質や偏見、固定観念がどの様に、それぞれを孤立させる原因になっているのかを写し出すチャンスなので、ただ手離しましょう。一瞬で手離すことも可能ですが、時間がかかる場合もあります。それは慎重に作られた鎧を脱ぐ事が容易ではない様に。 偉大なダーマミットラ師は、“怒ってからやれ!ウンザリしろ!でも誰かに言われたから、規則だから行うというのではなく、自分自身がマンネリにウンザリして、自分を変えたいという理由で尽くせ、マインドという独裁者からの解放を求めて尽くせ、 自己改革を今、Atha ”と言います。 ディビッド ライフ 翻訳;クマリ、パドミニ