バクティ(献身)は全ての切り札 神は物質的な世界を常に中心とする者、間違った観念で行為の道を歩む者の心に宿らないのです。 シクサ パトラ 32.4 訳 シャムダス、ヴァラダス 練習者は、神を認識するというヨガの究極の目的を見失わないように勤めねばなりません。何をする時にでも神を心に抱き、神の為に尽くす事を心と頭で最優先させて全ての行為を行うのです。私達が “私をあなた(神)の意志の使いとし、私を怒り、嫉妬、恐怖から解放し、喜びと思いやりの心で満たして下さい” と願う時、神様に私達自身の心に宿り、神の使いとして下さいと頼んでいるのです。その嘆願は私達の心の中に謙虚さを招き、自分自身をプライドや行為を行う者として認識する事から、神こそが究極の実行者という認識へと移行して行くのです。 最も簡単にジヴァムクティヨガを定義すると、” 全ての生き物に対しての思いやりを保つ心を通して、悟り(エンライトメント)を目指す道”となります。バクティ(献身)とアヒンサ(非暴力)の両方がジヴァムクティヨガの定義ですが、アヒンサの実践の手段のために、世界を救うために、又は日常の中で思いやりの心を養うためなどの理由によって、献身よりも非暴力を促進する、動物愛護や完全菜食主義、環境保護などの活動に没頭しがちです。活動を最優先して神への献身をおろそかにしてはなりません。 献身をおろそかにする事で、プライドや怒り、復讐や焦りなどの衰弱を引き起こし、無知(アヴィディヤ)とエゴ(アスミタ)に消費されてしまいます。 完全菜食主義者になり今まで隠されていた真実を知ると、かなり強度のカタルシス(心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること)を体験します。 今までは 疑う事も無かった動物差別を基盤とした文化、動物達を奴隷として命を搾り取り食し、地球の資源を金儲けといった欲望のために消費している、そういった真実に目覚める事によって動物保護活動に熱意を掲げ、心身を没頭する事は驚く事ではありません。 今までは通常だと理解していた事が、実際には偽りだったと悟った時にあなたの世界観は逆転し、活動主義へとやる気が出て来るでしょう。 思いやりの心に対して情熱を持つ事は良い事であり、この情熱は愛育し、敬意を保って育みましょう。だけれども、自分だけの力で世界を救うという風に目的を掲げてしまうと、傲慢さを招く事になります。 カルマヨガとは無我の奉仕だという事を忘れない様にして下さい。バガヴァッド ギータの中で説明されているように、カルマヨガとは行動の成果を完全に放棄する事を示します。カルマヨギは無我に行動し、その行動の成果を放棄し、謙虚に何の報酬も感謝をも求めないのです。 他者の生活の向上を目指し、この世界をより良い場所 にする事について無関心になれといっている訳ではありません。その逆で、私達自身の生活が他者の生活の向上へと繋がり、動物や地球への残酷な利己的搾取のあらゆる形態の廃止に繋がるライフスタイルを促進するべきなのです。 私達がもしも神を忘れてしまい、思いやりの心を基にしているとはいえ”活動”の旋風のみに身を任せてしまうと最終の目標を見失い、名声の無き努力への不満、無知とエゴの泥沼を体験する事になるのです。 この解決策は献身の心を保って、全ての考え、言葉、行動を神に捧げ、自らが慈悲の心を育むように努力する事です。謙虚さを忘れずに、全ては神によって可能となっている事を忘れない事です。全てを自らが独りでやるという考えをしない事です。何事にも執着せずに神の使いとして、彼の意志の道具として行動する事です。あなたが神の恵みの導管になれた時、周りはあなたへと同感し、あなたの可能性が広がるのです。 神に身を任せ、行動し、その成果が自己の努力で得られたものにせよ、全てをまた神に捧げる事です。あなたの努力の成果を認められたら、即時に神に、 “すべての光明をクリシュナに”とその賛美を捧げる事です。クリシュナに奉るのは宗教的ならば、せめて限界のある自己を超越する、高い意識の存在を認められる謙虚さを持ちましょう。 ~シャロン ギャノン 翻訳;クマリ、パドミニ