7月のマンスリーフォーカス - セックス、死、睡眠、愛、マジックとプラティヤハラ - 目に写るもの全てを 大宇宙として捉えるべきなのです –シャンディルヤ ウパニシャッド 師である シュリブラマナンダ サラスワティに聞きました。”グルジ、プラティヤハラとは何ですか?” そうするとグルジは側に近づいて来て、私を壁の方へと向かせました。そして “壁を見て、あなたはそこに何が見ますか?”と、私に聞きました。私は恥ずかしながらも “壁?” と答えました。この答えに対してグルジは “壁しか見えないようならば、プラティヤハラの練習をしなければなりません。練習をする事によって、壁ではなく神が見える様になるのです。”と教えてくれました。 ヨガとは、全ての生きとし生ける物を神の生きた表明とみなす、タントラの実践です。ヨガでいうサマディの状態では、全ての一体化を実感します。これを実現したヨギにとっては、この世で他 (生き物又は無生物) と共存しているという観念はありません。それは実現したヨギにとって、生命の全てが神だからです。 自己と他者、自己と自然、又は自己と神といった、偽りの分別を克服する為には、他という幻想である偽りの姿を乗り越えなければなりません。 どの様に実践して行くのかといえば、まずは全ての他という存在に顔をつける、他人であれ、地球、動物、森林,川、海、雨、風をも、人として扱う事です。 あなたが生存している世界を、顔の無い、感情の無い生物、植物、ミネラル,元素としてではなく、私達と同じ様に、個々として捉えるのです。世界全体をこの様に生きているのだと認識する事により、周りの環境との繋がりを感じる事が容易になり、孤独感、受け身体勢でいる事や、被害者意識もなくなるのです。 プラティヤハラとは知覚を浄化する練習であり、肉眼で見える事のみを信じるのではなく、そこからより深く探る事です。周囲の全てを人として関わる事によって、私達が分離した状態にいるという錯覚を取り除く、道を開く事ができるのです。 あなたもきっと、恋をしたら最初は相手を自分とは別の人だと捉えるけれど、そのうちに相手と自己 の異なる点よりも類似性を求めて、2人の間の違いは消失していく感覚をご存知でしょう。自己と相手が同じ人物の様に感じるのです。それはごく短い間かもしれませんが、分離を消失させる事が可能なのです。私達は皆、真実の宇宙現実を人生の中で幾度も経験をするといわれています。悟りを開いた者、聖者のみがこの全てとの一体感を経験出来るのではありません。性交渉でのオーガズム、死を迎える時もこの経験の一つです。そして毎晩眠りに入る時、熟睡する時、自己のエゴ/性格,身体、意識が無くなる時、自己が他と別であるという事を解き放つ時も、一体感を経験するのです。しかし私達の多くは、これらの死、熟睡、オーガズムの経験を自己の意識によってコントロールする事は出来ないのです。 ヨギは起きながらにして熟睡の経験を求め、意識を持ちながらエクスタシーを永遠に継続したい、それは例えるならばオーガズムや、死の間際と言う事が出来ます。タントラ練習者の多くは、死、セックス、睡眠にフォーカスした瞑想をします。タントラという言葉は、タン=引き延ばす+トラ=乗り超えるという2つの言葉から成り立ちます。タントラを実践するヨギは自己の意識を拡張して、神をも含む周囲の全ての存在を包容するのです。悟りを開いたヨギにとって外といった概念は無く、全てに神は宿るのです。 セックスという言葉は、分離を意味します。セックスの語源はラテン語のセコとセカレから来ていて、分割、切断、分離という意味を持ちます。セックスでのオーガズムの経験に寄ってこの分離を無くし、ごく短い間ではあるけれど、自己を無くす事で意識を高めて一体感を得るのです。 死の間際において人は、 彼らの身体から離れて海に溶け込んで行く様な体験をします。彼ら自身を、血の流れる肉体として他と分裂した存在と知覚する事から解放され、一体感といった世界との統合が可能になります。サマディとはオーガズム、死、睡眠の体験と同じ様に、他との分離を無くし、一体化へと導くという点で似ているのです。ヨガとは繋がるという意味で、引き裂かれた物をまた繋がりへと戻すのです。ヨガはセックスの正反対です–セックスとは分離、ヨガとは合一、統合を意味するからです。ヨガの状態とは無条件の愛の状態なのです。 他に自己を観る、深く探る事により他という一時的な状態が消え去り、神、愛、ヨガのマジックへの探求が残るのです。 プラティヤハラの練習を通じて、深く内面を見つめる事によって表面上にみえる相違点を超え、全てと繋がる事が出来るようになる。全てを溶かす溶剤は、聖なる力、永遠の愛であり、私達自身の本質なのです。 シャロン ギャノン 翻訳;クマリ、パドミニ